あきの忘備録

あきのの外部記憶装置

『想いよひとつになれ』はつらいですか

東京ドーム公演を1週間前に控えた先週末、「Aqours First LoveLive! 〜Step! ZERO to ONE〜」の無料配信が行われましたね。

全世界でなんと数万人もの人があの配信を観ていたようです。

詳しい人数は知りませんが、たぶん横浜アリーナ2〜3個分ぐらいです。

それでも東京ドームの収容人数よりは少ないのか、と思うとドームどれだけ大きいんでしょうね、わたし行ったことがないのでよくわからないんですけど。

 

 

さて。

「Aqours 1st LIVEの2日間を全編、無料配信します!」っていう公式からの告知を見た時、あなたは最初に何を考えましたか。

 

恐らくなんですけど、ちょっと身構えたはずです。

 

2日目の『想いよひとつになれ』と再び対峙することになるのか、と。

あれは壮絶なステージだったと記憶しています。いえ、記憶の中の映像としてはひどく断片的で途中が抜け落ちているシーンも多いのですが、身体の感覚としてあの時のことが本能的に刻まれてるんですよね。

あんなにも巨大な感情に突き動かされるような極限のライブを体験することは、金輪際ないだろうと思いました。そしてその予想は今のところ、私にとって事実となっています。

 

あのライブに対して「感動した」とか「奇跡だ」とか「勇気をもらった」とか、人それぞれ色んな感情を抱いていることかと思います。それは良いでしょう、受け取り方は千差万別。

ですが、この曲に対して少なからずトラウマのようなものを感じたり、この曲を聴くとつらくなってしまう人がいるみたい。ということを、先日の無料配信のリアルタイム実況を眺めていて改めて思ったんですね。

たとえば、逢田さんが涙する姿を見るのがつらい、という人とか、梨子ちゃんや逢田さんのことが大好きなのに、あの場に居合わせることができなかった。応援することができなかった、という事への負い目を感じている人とか。いろいろです。

 

どんな形であれ、逢田さんは自身のチカラであの極限状態の局面を乗り越えてくれました。それは「奇跡」などではなく彼女の真摯にして愚直な努力の積み重ねの成果であり、ただその場に居合わせただけの観客が安易に奇跡などと口にするべきことではない、とか、失敗をただ美談として扱うのは彼女の作品や音楽への誠意に対する侮辱である、とか、失敗が起こる可能性を考慮した上で対応策を用意していなかったであろう運営の不信とか、私が目にしただけでも本当に様々な思いを抱いている人がいるんですよね。

 

ですが、何が正しいとか、そういうのは一旦置いておきましょう。

 

このライブに関して逢田さんはインスタや雑誌のインタビューなど、かなり多くの媒体でこの件について語られています。ですので、彼女自身が何をどう感じているのかについては、調べればちゃーんとぜんぶ出てきます。

ですが、すべてのファンがそれら全てを知った上で『想いよひとつになれ』と良好な関係を築けているかというと、全くそうではない。

ようやく本題に入りますが、ここで問題なのは真相はどうであれ、多くの人が『想いよひとつになれ』という曲に対して「しんどい」を抱えていることなんです。

 

本当にいい曲なんですけどね。

 

わたし渡辺曜ちゃんのオタクなので「友情ヨーソロー」は特別な思い入れがある回なんですけど、ある時ある人が云われたんですよ。「想いよひとつになれ は梨子ちゃんの代わりに曜ちゃんと千歌ちゃんがダブルセンターをつとめた曲なのに、梨子ちゃんの曲みたいになっちゃって。曜ちゃん推しの人にとってはかわいそうかなって」と。

なるほど。

確かに云われてみればそう思っている人もいるのかもしれない。

 

 

劇中挿入歌はアニメの物語のために生まれたもの。

いえ、シナリオとコンセプトを基にして楽曲は生み出されている。であればアニメの物語によって楽曲が生まれたと言った方が正しいでしょうか。

いずれにせよ、本来であればアニメの背景を携えた楽曲として存在するはずのところが、ライブで披露されることで次元を超えて、楽曲が新たな文脈を得て、そこにまた新たな物語が生まれる、という流れ。

次元の壁を行ったり来たり、2.5次元コンテンツらしいといいますか、実にラブライブ!らしい構造だと思います。

 

この重層的な背景からくるエモーショナルこそが、他のコンテンツでは味わえないような圧倒的な感動体験に繋がっているのは言うまでもないことなのですが。

これらと向き合う際の感情の処理としてはとても複雑で、一口で呑み込んで味わうのは容易ではない場面がとても多いんですよね。

人間の感情は多重レイヤー構造になっています、ミルフィーユみたいなものです。

食べてみたらミルフィーユなんだけど、中に何が入ってるのかはよくわからない。

 

ラブライブ!関連の楽曲を聴いたときに頭の中がぐちゃぐちゃになってしまって「しんどい」という状態になるのがこれにあたるかと思います。

 

これが時として自分の中で矛盾として作用してしまい、無意識に自分を苦しめてしまう場面があるな、ということに私は気付きました。

最初に『想いよひとつになれ』を客観的に見た時の印象を例に挙げましたが、最近の私の実体験では、CYaRon!ちゃんのファンミ松山公演LV(はちゃめちゃに盛り上がって楽しかったはずのやつ)で号泣地蔵と化してしまい『勇気はどこに?君の胸に!』を歌うことができなかったり。キャストを含めた「みんな」が笑顔で楽しい時間を過ごそ〜ってなってる時に、自分だけついていけなかったり。感情が迷子、理性的にはそういう場面じゃないってわかってるのに「つらい」になってしまう。

「つらい」→「たのしい」にうまいことスイッチ切り替えられたら良いんですけど、どうしてもうまくできないこと。あるよね〜。

何しろ私たちは何もかもに思い入れをし過ぎているので、ノイズや葛藤が多いのです。

 

 

 

 

閑話休題。

 

 

 

 

ここで『想いよひとつになれ』の話に戻りたいのですが、この曲が「めっちゃしんどい」になってることをキャストやラブライブ!運営陣はよ〜〜〜く知ってるはずなんですよね。

特に逢田さんに関しては、SNSでのコメントやお手紙などでファンから直接声を届けられている(それも尋常ではない数の)(ものすごく感情的なメッセージを)。インタビューを読んだりSNSのコメントを見る限りでは

「もういちどピアノに挑戦して欲しい」

「もういちど(Aqoursに)想いよひとつになれをやって欲しい」

みたいな声がすごく多くて、これはさすがに運営陣にも届いてるんじゃないかと思う。では4thでは1stと同じような形式で同曲が披露されるか、ってなると、どうかな〜って楽しみな部分ではありますよね。

 

ラブライブ!サンシャイン!!のライブのセトリってすごく姿勢が一貫していて、楽曲が披露されるにあたって「必然性」や「文脈」っていうのがすごく重要視されてるんですよね。

1st LIVEはアニメの再現にこだわったものであったでしょう、アニメ→1st LIVEという時系列の流れの中でキャラクターにキャストが追いつくことが求められた。両者は「輝きを目指す」スタート地点が違いますから、ライブで再現、延いては体現をすることでキャストは初めてキャラクターと足並みを揃えることができるのだと思います。

1stでは『想いよひとつになれ』のアニメの再現ばかりか、それを上回る超現実を見せてくれました。

では4thで同曲が披露されることの「必然性」は?

もちろんファンがそれを望んでいるのであれば、ファンの期待に応えるという意味では必然かもしれません。

 

4th LIVEのタイトルは「SAILING TO THE SUNSHINE」。1st LIVEがAqours9人の船出であったとするならば、4th LIVEはAqoursと"みんな"を含めた10人での船出になるというコンセプトですね。

キャラクターにはできないことがキャストにはできるし、アニメではできなかったことも現実ではできる。9人だけでは辿り着けない景色に10人なら辿り着ける、そういうことなのだと思います。

 

1stの『想いよひとつになれ』を私は超えて欲しいのです。

あの一件以来でしょうか、私たちは(もちろんキャストも)ステージ上でのミスというものに対して少なからず過敏になってしまっていると思います。トラウマに近いでしょうか。だからというわけではないですが、それを吹き飛ばような最高のライブを見せて欲しい。過去を塗り替えて欲しいわけではなく、なかったことにして欲しいわけではなく、その全てを肯定するために「最高のいま」を見せて欲しいのです。

あの過去があったから最高のいまがあると、それを証明して欲しいのです。

これは期待であり願望であり、わがままの押し付けです。こんな雑念を勝手にドームに持ち込むのはライブに臨む態度としては望ましくないな、と自分では思っていますが。これがずっと、ずっと見たかったんです。

 

9人が同じ衣装を着て、9人で歌い踊る『想いよひとつになれ』。

曜ちゃんが言った「今度は9人で!」という言葉を、この曲で現実の物にして欲しいという願い。アニメではできないことも現実のAqoursにならできる。

「ずっと千歌ちゃんに憧れてたんだ」「梨子ちゃんのことが、だーーーいすき!」って伝えられたあとの2年生組が、パラレルワールドである現実世界でトリプルセンターでつとめるのも見たい。

ドームのセンターステージでサビを歌い踊る9人が、「どこにいても同じ明日を信じてる」で放射線状に観客席を指差す光景を見たい。10人目を含めて想いがひとつになるところが見たい。

 

 

なーんてね、いつも私が想像してる通りにならないのがラブライブ!なので。

もしかすると1stのリベンジで再び同曲でピアノを披露する逢田さんの姿がそこにはあるかもしれませんし(ステージでのミスはステージでしか取り返せない、は松浦果南の言葉ですが、現実世界ではSaint Snowが福岡公演でDROP OUT!?を披露する機会を与えられています。)それもまたラブライブ!でしょう。

 

私が求めているものの本質はこの曲がどんな演出で披露されるか、ではなく、1stでトラウマのようなものを抱えてしまった私たちが、『想いよひとつになれ』に対して「つらく」なくなるような最高のステージを見せて欲しいということです。

いまが輝くからこそ過去を肯定できる。

逢田さんは、あの日のことをいまも悔やんでいるでしょうか。

もしそうだとしたら、ステージで取り返して欲しいですね。全てを。

 

 

 

 

ここまで散々好き勝手書いておいてですが、ライブに余計な考察とか期待とか持ち込んでもなーーーんにもいいことないです。予想は裏切って期待は裏切らないのがラブライブ!ですから。

ただ、4thに関しては「いまの(現実の)Aqoursにならできる」というまさに夢のようなライブが間違いなく用意されているはずなので、正直ただただ楽しませて頂く、最高に楽しませて頂く、という気持ちでいこうかなって思います(ここまで書いてスッキリしたのでこの気持ちになれています、お話聞いてくれてありがとうございます)。

 

 

 

 

開いた花の香りから受け取ったんですよね、次の夢を。

 

わたし、ドームは初めてで。

 

Aqoursちゃんが招待してくれたから、ようやく行くことができます。

今にして振り返ると、あの日に映画館で「いまが最高」って泣きながら口にした言葉は、葛藤の中で無理やり絞り出したような言葉だったように思います。

いまが最高って思わなきゃいけないって。

でもいまは違うんだなー、もう何も後悔しなくて悩まなくて遠慮しなくていいんだ。

「いまが」って言うとあの頃はそうじゃなかったの?みたいなニュアンスになっちゃうから大きな声では言わないけど、「いまも最高」って感じ。

敢えて自分がそれをドームで言うかはわからない、胸に秘めておけばいいと思う。

 

いまは、自信を持って「10!」って言える。

いまは、自信を持って「Yes!!」って言える。

 

それって本質的には同じことだと思うし、それが一番大切なことだと思うから。

ここまで来るのに散々苦しんだけど、ドームで「10!」が言えるのがいまは一番嬉しいかもしれない。楽しみ。

 

 

 

 

 

 

それじゃ、みんなドームで会おうな。

 

サンキューフレンズ!!

 

おまえら全員愛してるぜー!!!!!